セブ島で語学事業に携わる僕の「全研ストーリー」
こんにちは。リンゲージ事業本部リンゲージスピーク事業部、セブオフィスの渡邉です。
タイトルにもあるように、今回のブログでは僕の全研ストーリーを全部乗せでお伝えします。
自らの失敗談、当時の心境なども隠さずお話しするので、リアルな声を通して、入社を考えている方や「全研ってどんな雰囲気の会社だろう?」と思われている方にも、当社で働く魅力をお伝えできれば嬉しいです。
プロフィール
さて、ここからがいよいよ、僕の全研ストーリーです。
運命の出会いがきっかけで入社を決意
2017年、全研に入社する少し前。僕は学生時代の仲間と立ち上げたベンチャー企業を去り、この先どうしようかと悩んでいました。年齢的にも転職活動が一筋縄ではいかないことは明確で、決意を新たに「一度覗いてみよう。視野が広がるかもしれない」と、ダメ元で訪ねてみたのが、これまで利用する機会がなかったハローワークだったのです。
結果、自身の固定観念だけでなく、人生そのものまでをも変えてしまう出会いがあるなんて、この時はまったく考えもしませんでした。
「合同説明会にも顔を出してみたらどう?」という担当者のすすめもあり、僕は説明会に足を運んでみることにしたのです。
▲2017年2月某所、合同説明会会場で撮った一枚。世界が傾いていて、白黒付いてない当時の心境を表しているようです(笑)
各社のプレゼンを見てから気になる会社のブースを回るという形で行われた、合同説明会。プレゼンが次々と進んでいく中、直感的に「ここは他と雰囲気が違う」と感じる会社がありました。
同じように感じた方も多かったのでしょう。プレゼン後の全研ブース前には行列ができていました。
ブースには二人の担当者が左右隣り合わせで座っており、一対一の面談を行う形になっています。そして、運命の瞬間がやってきました。
僕が呼ばれたのは、向かって左の席。担当の方が履歴書にサッと目を通すと、軽やかなテンポで話が進んでいきます。
「開発でインド行ってたの?面白い!」
「今日イチの出会いかも」
「次は隣の席で話しているモヒカンの人に会ってみてもらえますか?」
物事をハッキリ言う姿勢に僕は魅了されました。その方こそ、松島取締役でした。そして後日、その日はご挨拶できなかった黒田次長とも面談することになったのです。
面談当日。一通り会社説明を受けた後、黒田次長が登場しました。
黒田次長はモヒカンがトレードマークのマネージャーです。
▲現在はバリューイノベーション事業部で制作の統括をされています。
インパクトがあるのは、ヘアスタイルだけではありませんでした。蓋を開けてみれば、猛烈にPRをしていたのは求職者の僕ではなく、黒田次長の方だったのです。さらに驚くことに、履歴書に書かれていないはずの思考や背景まで読み解き、次々と言い当ててきました。
結局その日の面談は、黒田次長のほとばしる情熱に驚き、感心しているうちに終了してしまいました。そしてこれが、事実上の最終面談となったのです。
「この人となら、ワクワクする仕事ができるような気がする」
その気持に駆られた僕は、2017年3月16日に中途採用で全研に入社しました。
WEBソリューション事業部での日々
晴れて黒田次長率いるWEBソリューション事業部(以下、WES)に配属され、全研での生活をスタートさせた僕は、焦っていました。
活躍が期待され中途で入ったものの、なかなかこれという成果を出せずにいたのです。大きなプロジェクトの中核を任されるも、上手くコミュケーションが図れず、途中でプロジェクトを外れることになりました。
僕はそれまで、少数との「一対一」のやり取りを行うか、単独で決め、個人で実行するといった仕事ばかりをしてきて、「一対多」という状況には不慣れでした。
ただ、大きなプロジェクトでは、多数を同時に相手にする「一対多」こそが肝です。大人数が一同に会する催しの幹事役を任されたことがある方なら、ピンとくるかもしれません。
参加者全員の意見を一から全部聞いて悩んでいたら、いつになっても決まりません。ある程度的を絞り、全体にプランを提示して、物事を一気にまとめ上げる必要があります。
それはプロジェクトでも同じこと。しかし、当時の僕はそれをしませんでした。ある時はとある役職者、またある時は別の役職者…といった具合に、ひたすら「一対一」での話し合いを繰り返したのです。
これが後に混乱を招き、収拾のつかない事態へと発展していきます。様々な角度からの意見や懸念で溢れ返り、重要な決定事項がどんどん山積み、先送りとなってしまったのです。その頃には、何が重要で何がそうでないかの区別も難しくなっていました。やがてプロジェクト全体の進行にも影響が出はじめます。原因は言うまでもありません。
「こんなはずじゃない」
僕は次第に、自分自身さえも見失いはじめました。その頃の孤独感と不安感はチーム全体にも伝わっていたことでしょう。プロジェクトの進行役を任されていたはずの僕の立ち振る舞いは、きっと見るに耐えないものだったと思います。
プロジェクトを外れた後は、自分のやりたいことや、会社にどう貢献したら良いのかも分からなくなり、いつしか「このまま会社にいて良いのだろうか」と思うまでに至りました。
しかし、そのおかげで大事なことに気付けたのです。
同じ目的に向かって進むチームの仕事に、大小などない。
僕はそれまでの自分の姿勢を根底から見直しはじめました。その結果、「小さなところに綻びが生じれば、やがて大きなところにも影響が出る。まず小さなことからコツコツ積み重ねよう」という気持ちになれたのです。
さらに僕は、黒田次長からすすめられた以下の2つの取り組みを毎日徹底することにしました。
「KPT法」とは、良かったこと(Keep)・悪かったこと(Problem)・次の挑戦(Try)の頭文字を取った、プロジェクトを総括する為の手法の一つです。KPT法を活用することによって、自分の仕事を振り返り、次に向かって改善することができるようになります。
この手法を採用して以来、「何が起こっているか」の振り返りを強く意識するようになり、報連相の質が変わりました。
もう一つの「As Is To Be時計」は時間割を活用する手法です。至ってシンプルですが、いざ実施してみると想像以上の効果を発揮しました。
まず、タスクや時間の使い方を理想・現状と2パターンにわけて可視化します。そうすると、「全然時間足りないじゃん!」ということを思い知り、そこから「さて、今日はどう動くべきか」という戦略的な思考に切り替わるのです。
特にタスク量やプロジェクトの関係者が増えた時のような、マルチな対応が求められる際に有効でした。忙しい時や変化があった時こそ、「これをやれるのはここしかない」と予め見通しを立てておくことが必要になるからです。
▲当時欠かさず使用していた、「As Is To Be時計」のシート。ここに時間割を書き込んでいきました。
次第に自分のやるべきことが明確になり、些細なミスも減りました。
そしてコツコツと仕事を続けるうちに、新たな仕事が舞い込んできました。
「渡邉さんは新聞社にいたことがあるんですよね?校正の仕事をお願いできますか?」
こうして新しい仕事が増えていく中で、僕の「全研でのキャリア」にも変化が訪れました。
HRビジネスパートナー事業部への異動
ある日、WESのメンバーが会議室に集められ、僕の異動が正式に発表されました。
自身の進退については当然事前に知っていましたが、そこで驚きの事実を知ることとなったのです。
それは、この異動について、僕の校正・編集の仕事を評価したディレクターの絵里香リーダーからの後押しもあった、ということ。
その瞬間、毎日の小さな積み重ねが実を結び、「あの時があるからこそ今がある。腐らないで良かった」と思えました。どんな小さな仕事でも、見ていてくれる人はいるのです。
こうして僕は、HRビジネスパートナー事業部(以下HRBP)に異動し、秋葉係長率いる「美プロ」の制作チームの一員となりました。
そこで僕は再び壁にぶち当たります。
一つは知識量。もう一つはコミュニケーションという壁でした。
まず、美プロは美容業界に特化した求人サイトです。しかし、僕の美容業界に対する見識・説得力は周りに比べて明らかに劣っていました。さらに当時、僕は美プロの営業メンバーに対して遠慮して必要以上のやり取りを避けていました。相手の時間を割くことを極端に恐れたのです。
振り返ってみると、もっと前のめりでも良かったんじゃないかと思うところがあります。目の前のメンバーを心から満足させることができなければ、その先にいる本当のお客さん(美プロを利用して求人を出すオーナーさんや担当者の方々)の満足度を上げることも難しいのです。
HRBPにいた半年ほどの期間は、毎日自分の仕事で手一杯で、何かを試したり行動に移したりする余裕はありませんでした。
HRBP時代の課題を解決するために、セブに移ってから対策に乗り出しました。
実は、出発前に松島取締役からもらった「あっちのやり方なんで、とかありふれたexcuseは要らないから全力で」というメッセージの「excuse」の意味を、僕はずっと「遠慮」だと勘違いしていました。(ここでの正解は「言い訳」ですよね?笑)
元々自分の性格の遠慮がちな部分を問題視していたので、セブに来たら「遠慮なしにガンガン攻めてやろう」と心に決めていたのです。
今は疑問や相談事があれば、遠慮なく即座にコミュニケーションを図りにいきます。細かい言葉のニュアンスが分からなくてもそのままにせず、分かり合うまで話すので、言語の壁も感じません。
現地スタッフの声も遠慮なくとことん聞き出し、問題や懸念はすぐに報告、議題にあげます。かつて壁に思えたコミュニケーションも、今は物事をまとめ上げ解決する為の手段、最大の武器だと捉えています。(取締役の言葉と自分の勘違いぶりに感謝です笑)
そして、知識の壁もあまり感じなくなりました。
セブでは正直面倒に思えるようなことも山程やらなくてはならないので、瞬時にフィルターを通してから動くクセが身に付きました。
本当に必要か。何の為にその知識を得る必要があるのか。どうやって身に付けるべきか。こういった目的と手段をはっきりさせる習慣ができたのです。
素早く判断し、行動もどんどんシンプルになっていくうちに、知らないことに対する得体の知れない恐れも感じなくなりました。
必要な時に必要なだけ掴みに行けば良い。「頭の中で作り上げていた壁」を、情報整理と対話が取っ払ってくれたのだと思います。
▲セブに異動する前夜に制作メンバーの皆さんから頂いた、ビーチサンダル(なんとフィリピン製!)。橋本部長からの直筆メッセージ「Good Luck!☺」は、履いているうちに消えてしまいました…泣
▲美プロの皆さんから頂いた、バナナケース。こちらは受け取った時点でこの通り…泣
新たな挑戦…マラソンへの参加表明
先に述べたように、WES時代の僕の課題は小さな努力を積み重ねていくことにありました。
時間は前後するのですが、日本に居た頃に参加したとあるイベントをきっかけに、その大切さを身をもって学ぶことになったのです。
そのとあるイベントとは、全研の名物にもなりつつある、マラソンです。
実はWESからHRBPへの異動が決まる直前、「フルマラソンの大会に出てみないか?」というお声掛けをいただきました。
「参加表明するからには途中でやめるのはなしだからね?」と最終の意思確認をされて、意を決して返事をした日のことを今でも覚えています。
それからは猛特訓の日々が始まりました。
練習方法は、毎週・月毎に目標走行距離が設定され、走行記録画像(ランニングアプリなど)をLINEのマラソン部屋で報告し合うというもの。これが効果てきめんでした。
例えば真冬の夜、一人で練習しに行くのが億劫な時でも、「ナイスラン!」「ナイス10km!」とLINEで互いに声を掛け合っているのを見ると、心が熱くなってきます。
「あの人もこの人もこんなに頑張ってるんだから負けてられない」と思うことができたのです。マラソンは個人競技であると同時にチームプレーであることを実感しました。
▲大晦日の寒空の下、ランニングしている様子。国営昭和記念公園の周りがお気に入りのコースでした。
ある日の練習で走行距離を順調に伸ばしていた時、膝に異変が生じました。何度も膝の痛みとは向き合ってきましたが、それまでの痛みとは異質のものでした。
僕は怪我を恐れ、「2日以上練習の間を空けないように」というアドバイスに逆らい、膝をしばらく休めることにしたのです。
「もうやめておく?」
そう言われた時、僕は最初の決意を思い出しました。
約束したのにこのままリタイアなんて冗談じゃない。僕は一か八か、練習を再開することにしました。
するとこれまでの痛みの半分は「走行中に悪化するかもしれない」という恐怖からきていたことが分かったのです。覚悟を決めたことで、走っている間は膝が気にならなくなりました。
こうして僕の精神(そして膝!)は鍛えられていきました。
社長が以前仰っていた「辛い時こそ、手足を動かし続けなくてはならない」は、正に仕事とマラソンの両方に通じる言葉として僕の心に刻まれています。
▲本番前の調整練習で参加したハーフマラソンの走行記録。こんな感じで、練習の様子を細かく記録しながら進めていました。
3ヶ月の練習で、走行距離は累計502kmまでに及んでいました。それでも同じ大会に参加する全研社員たちの練習距離ランキングでは20位。(1位は900km超え!)
皆さんの練習量には頭が下がります。
語学部門からの再スタート。リンゲージスピーク事業部への異動
マラソンに励む時期と時を同じくして、僕は一大決心をしました。
「リンゲージスピーク事業部(セブオフィス駐在):1名」という社内異動の募集に手をあげることにしたのです。立候補して良いのか悩みましたが、まずは説明会に参加して話だけでも聞いてみたいと思いました。
しかしそこで、不測の事態が生じます。マラソン大会の本番を1週間後に控え、調整の為に参加したハーフマラソンの翌朝月曜日、高熱を出してしまったのです。
病院での診断結果は、インフルエンザA型。「通常2、3日で良くなります」という先生の言葉も虚しく、僕はほぼ1週間寝込むことになってしまいました。その間、前述の社内異動に関する説明会も予定されていて、僕は心待ちにしていたマラソン大会の本番と説明会の両方の欠場・欠席を余儀なくされてしまったのです。
会社に復帰して数日後、例の説明会について、人事部から「日時が確定いたしましたのでご連絡いたします」と一報が入りました。
「再度自分の為に時間を割いてくれるのか…ありがたい!」と会社のご厚意に感謝しつつ、指定の会議室に入ってみると、そこには松島取締役を含めた4人の重役がずらりと座っていました。
「えーーーー!?」
……こうして、英語を交えた事実上の役員面談が唐突に始まったのです。
次に呼ばれたのは、リンゲージスピーク事業部の原部長とのランチミーティングでした。その時点で僕の迷いはゼロ。生まれて初めて行く土地に不安もありましたが、良いところも悪いところも全部伝えて頂いたおかげで、そこでの生活や仕事が現実的なものとして想像できるようになっていたのです。
そして後日、上奥本部長を交えた最終意思決定の場が設けられました。近しい人たちの後押しもあり、僕は人生をリスタートするような気持ちで新たな一歩を踏み出すことにしたのです。
セブで始まった新たな仕事
リンゲージスピーク事業部セブオフィスには、オンライン英会話の講師が多く在籍しています。
「顧客満足」を第一に掲げ、お客様のみならず、講師・同僚・事業部全体の満足度向上を実現するのが私たちのミッションです。
その中で私は現在、
・講師の勤怠管理及び監督
・教材開発
・給与計算
・新人研修
・新オフィス立ち上げ
など、オンライン英会話レッスンの運営に関わる業務を全般的に行っています。
ここでも、WES時代から引き継いだKPT法を活用しています。また、最近はGoogleやFacebookでも採用されている「OKR」という手法も取り入れ、人材確保やサービス向上の課題・目標に取り組んでいます。
▲現地のスタッフたちと、オフィスのロビーにて。
セブに来てまず最初に驚いたのは、運用管理しているデータの多くが手書きで入力された紙媒体だったことです。
オフィス立ち上げ当初、講師の在籍数がまだ少人数だった頃はそれでも上手く回っていたのだと思います。しかし今では数百人の講師が働いています。勤怠記録一つ取っても、そのデータは膨大な量です。
紙のままでは欲しいデータを検索できないだけでなく、まるで図書館の本のように、誰かが見ている間はその資料を閲覧できないという問題も生じます。データの紛失も起こり得る状況でした。
そこでまず、僕は現存する資料の情報整理からはじめることにしました。中身を把握しながらコンピュータへの移行・統合作業を同時に進めるこの大改造計画には、数ヶ月を要しました。
驚いたのはこれだけではありません。
セブオフィスでは私が異動した頃、給与計算が全部手動だったのです。
「このままでは将来講師が更に増えた時に立ち行かなくなる」
そういった危機感から、システム化への改革にも乗り出しました。
まだまだ書き切れないほどの発見と課題がありますが、「ここはもっとこうするべきじゃないか?」という議題に対して、素早くアクションを起こせるところにやりがいを感じています。
既存の社内ルールでさえ、必要に応じてスピーディーに変えられる。そんな即応性の高さが、セブオフィスの強みではないかと思います。
サービス向上や働きやすい環境づくりの為、現地のマネージャーやスーパーバイザー、トレーナー、講師、経理スタッフらとコミュニケーションを取り合う日々は目まぐるしく、毎日刺激が絶えません。
日本人マネージャーとして、メンバーから求められていることに終わりはないのです。その分、「仕事が(人生が)楽しい!」と心から言える環境があります。
ここでの生活や出来事は、Linguage Speak公式ブログの方にも綴っているので、是非チェックしてみてください。
↓こちらからも記事をご覧いただけます。
ちなみにセブでは「HIDENORI」の「NORI」の字を取って、オフィスのメンバーからは「サーノリ」と呼ばれています。
ブログにはNORIとして度々登場しているので、ご覧ください。
▲「デニム&ダイヤモンド」というテーマで開催された、クリスマスパーティーでのスピーチの様子。「LINGUAGE AWARDS ’18」という社内表彰式も行い、盛り上がりました。
最後に
僕の全研ストーリー、いかがでしたか?
セブに赴任して約1年…まだまだやることだらけ。これからも仲間の活躍に負けないよう、楽しみながら、全力で取り組んでいきます。
30歳後半ですが、まだまだ会社と共に成長できると信じています。そう思える会社との出会い、仕事仲間との出会いに感謝です。
以上、リンゲージスピーク事業部セブオフィスの渡邉がお届けしました。(see u! -NORI)